【過去10年間の打者記録の変遷~その1:本塁打数について】

【過去10年間の打者記録の変遷~その1:本塁打数について】

 とにかくまずはこの数字の変遷を見ていただきたい。
 2001年~2010年までの過去10年間の日本リーグ1部の総本塁打数の変遷である。


<茶色の棒グラフが総本塁打数の変化、青い折れ線グラフが最多本塁打の変化である>
 数字で表すとこうである。
2001年:110本
2002年: 90本
2003年: 89本
2004年: 17本**
2005年: 50本
2006年: 63本
2007年: 80本
2008年: 99本
2009年:147本
2010年:121本

 

 同じく過去10年間の本塁打王の本塁打数の変遷である。同様に数字で書き起こしておく。
2001年: 7本~田中幹子
2002年: 6本~山田恵里
2003年: 8本~馬渕智子
2004年: 4本~馬渕智子
2005年: 4本~馬渕智子、田中幹子、三科真澄
2006年: 4本~田中幹子、三科真澄、金谷麻美
2007年: 6本~谷川まき
2008年: 5本~中村歩、G・クーパー、三科真澄
2009年:10本~谷川まき
2010年: 8本~N・ワトリー
※2004年の極端な本塁打数の減少が際立つ

 

【過去10年間の本塁打を放った打者数の変遷】



 同じく、数字で表わしていこう。
2001年:52人
2002年:47人
2003年:53人
2004年:10人
2005年:32人
2006年:35人
2007年:42人
2008年:53人
2009年:68人
2010年:60人

 

【本塁打数、本塁打王本数の変遷の特徴】
 過去10年間の本塁打数変遷の特徴を箇条書きする。
(1)とにかく年度別の本数の変化が激しい
(2)特に2004年度の急激な減少と、その後の増加傾向が著しい
(3)年間総本塁打数と、その年の最多本塁打数、本塁打を放った打者の数の上下傾向が、ほぼ一致している

 

【過去11年間の打者環境の変化】
 では打者環境に関する重要な変化を列挙してみる。2000年に大きな変化があったのでここでは過去11年を振り返る。

2000年:ミズノがシドニー五輪用として三層構造の「テックファイヤー」を開発。
    (ただ飛距離は伸びたが割れるものも多く改良が求められた)
2002年:ISFの規約により投手捕手間距離、外野フェンスまでの距離が変更となる。
    投捕間距離が、12.19m→13.11m
    フェンスまでの距離が、60.96m→67.06m
2004年:ボールが白色から黄色に変更となった。
2005年:アメリカのバットメーカーのルイスビルスラッガーの「カタリスト」が日本上陸。
    ミズノのテックファイヤーに代わって飛距離の出るバットの主流となる。
2007年:ミズノが北京五輪用として「Ax4」を発売。
    名前のごとく初代テックファイヤー時の三層構造から改良した「四層構造」である。
    カタリストで飛躍的に伸びた飛距離がさらに増し、その後の本塁打バブルを引き起こした。

 

【本塁打数増減の理由を推察する】
 以上、見た来たような過去の記録や環境の変化から、本塁打数変遷の意味を読み取ってみたい。

※まず前提条件として、「総本塁打数」と「最多本塁打」と「本塁打を放った打者数」の3つのデータの増減がほぼ一致していることを重視したい。
 つまり、ある特定の驚異的に本塁打を打てる打者数人が極端に数字を押し上げているのではなく、本塁打を打った打者数が増えたことで全体的な本塁打数が増えたということである。
 これはすなわち、全体の打者の飛距離を増すようななにか「外的要因」が働いていることを示唆している。

2000~2001年:ミズノのテックファイヤーの開発により、年間総本塁打数が100本を超える時代を迎える。
2002年:投捕間距離が1m伸び、フェンスまでの距離が7m伸びるという大きなルール変更があった。ただ投手打者それぞれに有利不利な変更が同時に行われたため条件が相殺され、フェンスまで遠くなったことによる本塁打数の減少はわずかであった。
2003年:前年度同様の条件でリーグが行われた結果、本塁打数がやや伸びた。これは打者の適応の結果だろう。
2004年:結果的に近年もっとも劇的な変化が生じたのがこの年である。
    ボールが前年度までの白いボールから同じ革製ではあるが縫い目の高い黄色いボールになった。
    最近まで全日本総合などで使われていた白いボールであるから印象に残っているファンも多いと思うが、平均的に見て白いボールはよく飛ぶ。これは縫い目が低く空気抵抗が小さいからだと言われている。
    黄色いボールになって打者としては見やすくなった一面もあるが、それ以上に打球の伸びの悪さによる飛距離の低下の影響が大きかったと思われる。本塁打数が5分の1に減るというのは、良し悪しは別にして異常な変化だろう。
2005年:この年いよいよアメリカから「飛ぶバット」が到来する。ルイスビス社の「カタリスト」だ。これにより本塁打数が3倍近くになる。
2007年:カタリストよりさらに飛ぶバットであるミズノの「Ax4」(三層構造テックファイヤーの後継者)が導入され、いよいよ「本塁打バブル」の到来を迎える。結果的にこれが翌々年の谷川まきの「年間10本」という記録に結び付く。
2010年:右肩上がりで続いていた本塁打数の増加も一息つくが、それでもなお高い水準を保っている打者天国の状態が続いている。

 

【結論】
 本塁打数は、2000年のミズノのテックファイヤーバットの解禁により増加したが、2004年の黄色いボール(縫い目が高く飛距離が出ない)の導入により激減、その後の飛ぶバットの導入により一転して増加傾向、という流れがあることがわかった。

 特にバットの解禁の影響が本塁打数の増加に影響が大きいが、2004年以降の右肩上がりの増加には、黄色いボールを遠くに飛ばすように打撃技術を改良していった打者の進化の過程も決して無視はできない。
 こういう記録を見ていると、2004年前後の本塁打数が伸びない時期にピークを迎えた選手がかなり不利な条件であっただろうことは明らかだ。

 今回は話しが混乱しないよう本塁打数に絞って議論したが、
 安打数や三振数の変遷などと比較したらそれはそれでまた面白い傾向も見られた。
 そのあたりは次回以降に考えてみたい。

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