【ソフトボール日本リーグの選手移籍・その2 ~ 引退と復帰】

「その1」では主に「廃部」にまつわる選手移籍について書いたが、「その2」ではます「引退→学生経由→復帰」を経験した選手についてまとめてみた。次に「引退→ブランク→復帰」の選手についでである(一般的に、引退して退社したあとに復帰する場合は当然もとの会社には戻らないわけで、他チームに移籍して復帰することになる)。そして最後に、チーム間を移動したいわゆる「普通の移籍」についても若干ではあるが言及した。

 

【引退→大学・専門学校経由→復帰】
実はこのケースに当てはまる選手を調べ始めたのが、移籍選手全体についてまとめてみようと思ったきっかけである。僕はとにかく、回り道とか道を一旦外れて復帰した選手が好きだ。「挫折を克服して尊敬できる」とか「そこまで頑張って感動した」とか、そういうのとは少し違う。「唐突に辞めたのになんだかまた復活してきた。そういう選手って、なんか人生面白そうだ」という興味、それに尽きる。「その1」でも言及した「廃部経験者」にも当てはまる。そういう運命に巡り会っても壁を乗り越えてきた選手の方が「なんだか面白そうだ」というのが興味の全てである。正確に言えば「酒飲んで喋る機会でもあれば(あるのか?ないと思います)その話しを是非とも聞きたい」というだけである。つまりは、自分の人生と被る面が多いからと言うのが理由だが、まあそれ以上詳しくは恥をさらすので言わない(笑)。
さてここに上げた選手である。一度実業団に進みながらも廃部に遭ったりチームを去ったりしながら、しかしそれでも再び大学や専門学校に進んで学生身分ながらもフトボールを続けてそこで成長し再び実業団に復帰してきた。それがもちろん「面白い」のではあるが、ただ、そんな回り道をしてきた選手がすぐにでもやり直せてリーグの最高峰チームにも復帰できるシステム。そんな風通しの良いシステムこそ日本ソフトボール界の財産であるとも思う。
ちなみに近年はその大きな役割を甲賀医専というスポーツ専門学校が担っている(日本ウェルネスの卒業生にも期待したい)。

藤原麻起子:東邦銀行(2002)→東北福祉大(2003~2006)→ソフトウエア(2007~)
酒井かおり:トーテック(2002~2003)→東京女子体育短大(2004~2005)→織機(2006~)
吉海麻衣:トーテック(2002~2003)→甲賀医専(2004~2005)→デンソー(2006~2007)
志水麻里:ミキハウス(~2004)→甲賀医専(2005~2006)→Honda(2007~)
萩藤寛子:デンソー(~2004)→1年ブランク→甲賀医専(2006~2007)→靜甲(2008~)
藤田恵:大鵬薬品(2001)→大阪国際大(2002~2005)→シオノギ(2006~)

藤原は、今や1部の強豪日立ソフトウエアのエースである。昨年2008年は上野に次ぐ防御率2位で、五輪後の新生日本代表にも推されるような投手だが、実業団に入るまでの苦労はあまり知られていない。名門星野高校からすぐに東邦銀行に進んだが、その年限りで東邦銀行が廃部。先輩選手たちが他のチームに移籍する中、1年目の藤原には声がかからなかったのか自らの意志かはわからないが、1年遅れの形で東北福祉大学に進学した。東北福祉大時代の1年先輩には戸田中に進んだ鈴木里枝がいたが年齢は同じであり、部ではどういう関係だったのだろうか。ただ東北福祉大では大いに鍛えられ成長したのであろう。卒業と同時に1部の強豪、日立ソフトウエアにスカウトされた。その後の大活躍は上に述べたとおりである。
酒井は高校卒業後2部のトーテックに入ったが2年目の途中に吉海とともにチームを離れた。翌年進学した東女短大ではユニバーシアードに選出されるほどの活躍で、卒業と同時に強豪の織機に入った。昨年織機のレギュラー遊撃手として3割を打った活躍を見ると、最初に入団した2部のチームから酒井の実力がはみ出してしまっていたのかも知れない。同じくトーテックを離れた吉海はその後、旅亭紅葉・甲賀医専を経てデンソーに移籍した。
甲賀医専の場合は専門学校でありながら2部リーグに加盟しているため実業団を辞めた後に進学しても「ソフトボールから引退」というのには当たらないかも知れない。しかし2年間という期限の中で再びソフトに挑戦するわけであり、選手の気持ちとしてはある意味実業団時代以上に期するものがあるのではないか。年々この学校を出て実業団に進む選手も増えてきており(戸田中の中條や誘電の川原など)、選手がソフトボールを続ける選択肢の一つとして実に有意義なものになってきている。
ミキハウスで3年間活躍し、2年目は20打数6安打の3割だった志水だが、3年目は打率1割未満でその年チームが廃部。チームを引き継いだ佐川急便関東には所属せず、甲賀医専に進んでソフトボールを続けた。そして2年後、Hondaにスカウトされて再び1部リーグに戻ってきた。昨年は規定打席に到達して3割2分6厘というチーム1の高打率も記録した(しかもあのライトゴロさえなかったら、打率は3割4分8厘であった!)。
萩藤は名門須磨ノ浦を卒業して1部のデンソーに進んだ性格のとても良い大型捕手であったが、1年目でチームを去ることになる。帰郷して時を過ごしていたがソフトへの情熱は冷めず、上記した志水と同様に甲賀医専に進んでソフトボールを続けた。そして卒業と同時に2部の強豪の靜甲に入り、入れ替え戦に進む躍進に貢献した。
シオノギの藤田恵がなぜ同じ年の松村とシオノギ入社年が1年ずれているのか長らく謎であったが、ようやく大学に入る前に大鵬薬品に所属していたということに気がついた。ああスッキリした。

 

【引退→ブランク→復帰】
一度選手を引退したあとにどこにも所属せず、再び実業団で現役復帰する選手も数少ないが存在する。しかしながらそのような芸当ができるのも、ブランクがあっても実力を必要とされる一流選手に限られるようだ。もちろん復帰する場合は、一度退社した会社には戻れないので自然他チームに移籍することになる。

伊藤良恵(かずえ):ルネサス(~2004)→2年ブランク→デンソー(2007~)
坂井寛子:戸田中(~2004)→2年ブランク→誘電(2007~)
山崎萌:日立ソフトウエア(2003)→2年ブランク→湘南ベルマーレ(2006~2007)
萩藤寛子:デンソー(~2004)→1年ブランク→甲賀医専(2006~2007)→靜甲(2008~)
庄子麻希:誘電(~2005)→1年ブランク→Honda(2007~)
荻原千佳子:シオノギ(~1999)→1年ブランク→デンソー(2001~2004)→湘南ベルマーレ(2005)→旅亭紅葉・甲賀医専(2006)→松下電工津(2007~)
白井沙織:レオパレス(~2006)→1年ブランク→織機(2008~)
立岩宏美:デンソー(~2003)→1年ブランク(デンソー社員)→デンソー(2005~2007)

伊藤良恵(かずえ)はアテネ五輪代表選手として活躍し、リーグでは首位打者も獲得した選手だが、結婚(お相手は代表相手に強化担当していた男子ソフトボール選手)を機に引退。翌年出産した後、2年間のブランクを経てデンソーで現役復帰し、今も一塁手として活躍している。ちなみに、日本リーグで最初のママさん選手は、東芝ライテックに在籍していた選手のようだ。この五輪選手と同姓同名としても有名(?)な伊藤良恵(よしえ)も苦労人だ。最初の所属の東芝ライテックで廃部を経験したあとにトーテックに移籍、のち1部のホンダに移籍して、2006年に現役生活を終えた。
坂井の復帰ストーリーは既に多くの人の知るところだろう。金沢高から戸田中へ実業団入りし、1部昇格、初の決勝トーナメント進出、アテネ五輪代表と、上り詰めた2004年に現役を引退した。2年間のサラリーマン生活と、完全にソフトボールから離れていながら2006年、山路監督に乞われる形で太陽誘電で現役復帰した。そして2008年、日本に初めての五輪金メダルをもたらしてくれた。日本の金メダル獲得として一般的に最も評価されているのは上野だが、それを支えていたのは紛れもなく坂井の存在である。そして坂井に復帰を決意させた山路監督も、日本の金メダル獲得には欠くべからざる存在だっただろう。
庄子は膝の故障もあり2005年で誘電を引退し、地元の北海道に戻った。しかし1年のブランクを経て2006年にHondaで現役復帰した。折しも誘電に坂井が復帰するのと同年。庄子も誘電時代には代表に名を連ねていた投手、意地もあっただろう。坂井が五輪で活躍する反面、庄子はなかなかHondaで結果が残せないが、それでも負けられない意地というか、庄子の投球には鬼気迫るものがあり見るものを圧倒させる。
山崎は世界ジュニア選手権代表のエースで世界一になった逸材。2003年の1年目から4勝3敗、防御率0.79、決勝トーナメントでも2安打完投し、新人賞も獲得するなど大活躍だったが、1年でユニフォームを脱いだ。その後2年間のブランクを経て湘南ベルマーレで復帰し、再び2年間の現役生活を送った。
萩藤に関しては「学校経由」の項で述べた通りである。
デンソーに復帰した荻原、織機に復帰した白井の場合は上記4人とはやや事情が異なる。白井はレオパレスで活躍していたが一度は引退を決意。しかしその直後、退社の報を聞いたライバルチームの織機からの強い誘いに翻意した。ただし強豪チーム間の移動であったため2007年の1年間はブランクを強いられ、2008年に晴れて1部選手に復帰した。ただ1年間試合に出られなくともチームに帯同させるという、そこまでしても白井が必要とされたわけで、先の4人と同様一流選手であることには変わりはない。2008年の織機の準優勝には白井の活躍は不可欠だった。
荻原の場合も恐らく似たようなものだろう。シオノギの主力だったがデンソーに移籍を決め、1年間のブランクを経て2年目からリーグに選手登録された。
その荻原であるが、もっとも多く渡り歩いた選手の一人かも知れない。シオノギのあとデンソーで4年間プレーし、湘南ベルマーレを立ち上げた安藤に呼応してベルマーレに移籍。1年でベルマーレを去ると旅亭紅葉・甲賀医専で1年間プレー。紅葉と甲賀が合同チームを解消し甲賀医専単独チームになったため、学生身分ではなかった荻原は翌年に松下電工津に移籍しさらに選手生活を続けた。1996年と2001年には全日本候補にも入っていた選手で、2006年には2部で首位打者も獲得した。身長152cmの小柄にしてこの波瀾万丈な経歴。根性のかたまりのような選手なのだろう。デンソーの後輩で今年大活躍し初の決勝トーナメントに導いた増山由梨は、まさにこの荻原タイプの選手である。
そのデンソーのOGである立岩のケースは非常に特殊である。2003年、規定打席到達で打率0.345とブレイクしたがその年限りで現役を退いた。ただデンソーの社員として社には残り、1年のブランクを経て2005年に現役に復帰した。ただしその後は2003年の力は戻らず、2008年デンソー初の決勝トーナメント進出を待たずに2007年に引退した。

 

【翌年に所属チーム移籍】
さて蛇足にはなるが最後に「引退や廃部などは経験せずに翌年他チームに移籍した」という選手について。FAやトレードのない日本の企業スポーツではこういう横への移籍はなかなか見られないのだが、実際にはよく見られる。いきなり矛盾するような言い方だが、形式上は他チームへのスムーズな移籍に見えても内情は前所属チームを戦力外になったあとに移籍先を探してチームを移動した、というケースが多いようである。
そのように現実的には「(1部チームを)戦力外→(2部チームに)移籍」というケースがほとんどで「1部チーム間の移籍」がほとんど無いのは、強豪チームによる主力選手の引き抜き防止という秩序維持のためやむを得ない策であるのだが、ただし極稀にそのようなケースも見うけられる。主力選手がブランクを経ずにチーム間で移籍する場合、前所属チームの了解が必要であるのだがそれが認められたケースである。

坂元令奈:戸田中(~2007)→トヨタ(2008~)
橋本夕起子:大鵬(~2006)→戸田中(2007~)
島袋優美:ルネサス(~2004)→レオパレス(2005~2006)

坂元は戸田中でもクリーンナップを任されていたバリバリのレギュラー遊撃手であり、このような選手の1部チーム間の移籍は非常に珍しい。とてもトラブルを起こすような選手ではない温厚な人柄であり、前年1部残留に大貢献したご褒美に私生活面も含めて個人的な希望を通してもらえての移籍だったのかも知れない。
橋本も大鵬で4番を打った主力選手だ。ただ移籍前年の2006年に入れ替え戦で靜甲に敗戦し、翌年チームは2部落ちが決まった。そのチームから功労者として1部チームに移籍する希望を聞き入れてもらえたのかも知れない。
(もちろんこれらはあくまで推測であり、このような移籍理由が公にされることはまず無い)。
島袋は名門厚木商業に県外から進学した初めての選手である。一見大人しそうではあるが彼女が道を切り開いたおかげでその後に国吉早乃花(島袋のいとこ)、新崎涼子と沖縄から後輩達が進学することになる。高校時代は春夏連続優勝に3試合連続完全試合などずば抜けた投手であったがルネサスでは野手に転向、ジュニア世界選手権優勝メンバーにもなった。ルネサスでは2年間よく辛抱した方だろう。2年目には規定打席に達する活躍だったが、2005年にはブランクを経ずレオパレスに移籍した。2006年早すぎる引退を決意したが、その後はベイスターズのスポーツコミュニティーで講師もしていたように、ソフトボールには一生係わってくれるはずだ。

 

【一度引退し、学校を経由して再び日本リーグに復帰し今も大活躍する選手たち】
<藤原麻起子:東邦銀行→東北福祉大→日立ソフトウエア>

<酒井かおり:トーテック→東女体短大→豊田自動織機>

<志水麻里:ミキハウス→甲賀医専→Honda>

<このライトゴロがなければ打率3割4分8厘、14位だった!>

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