【「背番号4」のいないシーズン ~ 藤崎由起子の7年間】

<静かにユニフォームを脱いだ「背番号4」>
 新しい年度が始まる4月は、他の多くのスポーツと同じようにソフトボールシーズンが始まる4月でもある。そして4月の声を聞くとすぐに行われるのが、目前に迫ったシーズンを占う上でも重要なオープン戦である「トヨタカップ」で、今年は4月4日から4日間の日程で先週行われた。
 トヨタカップが行われるトヨタスポーツセンターと言えばもちろん、トヨタ自動車のホームグラウンド。先週訪れたそのトヨタ自動車のホームグラウンドが、そして特に4にちなんだ今年のトヨタカップが、去年まで「背番号4」をつけていたトヨタ自動車の名選手が今年からいないことを実感する場所となった。

 2012年限りで引退したが、2006年にトヨタ自動車に入部してから7年間、藤崎由起子は常に中心選手として、そして裏方としても、チームを支え続けてきた。

<トヨタSCでの練習試合でホームランを放つ藤崎由起子(トヨタ自動車)>

 栃木県の白鴎大足利高校出身。高校時代にしごかれて実力をつけた藤崎は、東北福祉大に進んでもすぐにトップクラスの活躍をする。すでに大学2年の時には宮城県代表として実業団選手に混じって藤原麻起子とともにわかふじ国体に選ばれていたし、大学4年の卒業時には、2年後に北京五輪を控えた日本代表Bチームのメンバーに遊撃手としても選出されていた。そのB代表としての国際試合では捕手としてマスクも被るなど、すでに代表レベルでどこでもこなせる多才な一面も覗かせていた。その彼女の実力が花開く東北福祉大時代だが、もちろん指導力のある監督の元で学んだことも大きかったはずだが、高卒後に東邦銀行を経由して1年遅れで東北福祉大に入ってきた同じ年の藤原麻起子との出会いも大きかったのではないだろうか。大学で優勝した年は藤崎は遊撃手で、藤原は現ペヤングの村中とバッテリーを組んでいたが、それでも、2006年の4年時に藤崎がB代表に選出された時に、さらに上のA代表に選出された藤原と同じチームになったことは大いに刺激になったはずだ。

<わかふじ国体に、成年女子宮城県代表として藤原とともに東北福祉大から選ばれて出場>

 

 個人的な話しになるが、自分の周りにはなぜか藤崎由起子ファンが多かった。トヨタ自動車と言えばジャパンでも活躍した藤野遥香や次世代ジャパンを担う渥美万奈や鈴木美加、ソフトボール界希望の星のアイドル投手山根佐由里や、山根の前のアイドル投手の露久保望美など、ルックスと実力を兼ね備えた名選手が多かったのだが、それでも藤崎が金メダリストの伊藤幸子に負けるとも劣らないような人気者だったような気がする。
 同性や後輩選手からは「カッコイイ選手」として憧れられていたようだが、何より彼女が好かれた理由はあの人なつっこさと愛想の良さじゃなかっただろうかと思う。こんな不機嫌を絵に描いたような僕でさえ、藤崎と会うとついハイタッチをしてしまうような、そんな誰からも好かれる愛嬌が彼女にはあった。

<デビュー1年目(2006年)のブレイク>
 2006年実業団のトヨタ自動車に入社した藤崎由起子は1年目から正捕手として大活躍する。開幕から捕手としてスタメン出場すると、巨漢のケイラ・ゴアールや露久保望美などの投手陣を小さな体で必死にリードし全22試合に出場し19試合で先発マスク。打つ方ではデビュー戦の戸田中央総合病院で三塁打を放つと、第3節の織機戦ではチーム2安打のうちの1安打となる二塁打をミッシェル・スミスから放つ。1番捕手として先発出場した第10節の日立ソフトウェア戦では、ゴアールをリードして日立を完封し、打っては決勝二塁打とまさに大車輪の活躍だった。最終的に打率3割6厘、3長打、5打点。この年は4割近い打率を残したルネサス高崎の峰幸代がいたのが不運だったが、新人賞に匹敵する素晴らしい活躍だった。

<2年目のジンクスはチーム事情から>
 そんな1年目からレギュラー捕手として大活躍した藤崎だったが、2年目の2007年はチームが新外国人捕手としてエミリー・ザプラトッシュを補強したことで三塁にコンバートされる。この年は結局ザプラトッシュが正捕手として第9節までの全試合に出場し、第10節では西山千鶴が2試合マスクを被ったが、結局リーグ戦で藤崎の捕手としての出番はなかった。もちろん正三塁手として全試合に出場し、第4節のシオノギ製薬戦ではサヨナラ打も放ったが、最終打率は一気に下がって2割1分1厘。少なからずコンバートの影響が出てしまった結果の“2年目のジンクス”だった。

<3年目に打者として再ブレイクし、そして5年目、優勝の年に打点王獲得>
 打点王を取った2010年も彼女の歴史に残る活躍の1年だったが、藤崎個人としては3年目2008年五輪の年の活躍も印象的だったかも知れない。第2節のルネサス戦では0-2と2点ビハインドの7回に上野由岐子から同点へと繋がる1点目のタイムリー二塁打。続く第3節では今度は織機のミッシェル・スミスから2回に同点の三塁打、さらに第4節では今度は佐川急便のターニャ・ハーディングから3回に決勝の2点二塁打と、3節連続で世界クラスの投手から貴重なタイムリーを重ねた。
 そして2009年にアボット、ワトリーという最強外国人コンビを補強したトヨタ自動車がようやく優勝した2010年に、藤崎個人もチームの勢いに乗り4本塁に19打点の打点王と大活躍。3連覇へと繋がる最初の優勝にバットでしっかりと貢献したのだ。

<2008年第2節霧島大会で豊田自動織機のミッシェル・スミスから同点の三塁打を放つ>

<打者として、そして再び捕手として…>
 その打点王を獲得した大活躍の2010年の一年間を藤崎本人はどう振り返るだろう。
 トヨタ自動車に入り1年目からレギュラー捕手として大活躍。しかし2年目は外国人捕手ザプラトッシュのために器用さを見込まれ三塁へコンバートされ、ザプラトッシュがいなくなった3年目2008年からは渡邉華月が入ってきたことで完全に正捕手の座は渡邉のものになった。藤崎本人は「どこでも守れる器用さ」を「器用貧乏」とは思わず、「これこそ自分にしかできない特徴だ」と思っていたのかも知れないが、さすがにあそこまで何でもやらされると肉体的にも精神的にも辛かっただろう。2009年からは渡邉がアボット専属のようになったことで藤崎は内野手に控え捕手にと大忙しで(翌2010年は控え捕手が新人の山崎早紀しかおらず特にきつかったはずだ)、公式戦では内野手として出場しながらも、練習では黙々とブルペンでマスクを被り、練習試合や地方大会ではサード、ファースト、DPで試合に出ながら時には若手日本人投手とバッテリーを組んで試合に出るなど、小さな体にあまりにも鞭を打ちすぎた。その結果が2009年の「最終打率1割4分3厘」であり、彼女にとって大不振の1年になってしまった(この年は日本代表にも選ばれた年だったのだが)。
 そんなどん底の2009年の藤崎だったが、もちろんこのままでは終わらない。2010年は再び自慢のバッティングを取り戻して前半戦3本塁打と大活躍すると、後半戦で思わぬチャンスが巡ってくる。
 アボットが入って以降は完全に「アボット-渡邉」のバッテリーで、藤崎がマスクを被るのは「練習試合での日本人投手相手だけ」というパターンになっていたが、2010年の第6節シオノギ製薬戦で、最初で最後の機会となる「アボット-藤崎」のバッテリーがスタメンとして実現したのだ。もちろんアボットはいつもの快投で4回1死までに8奪三振。藤崎も第4号のホームランを放つなど、自身の4年ぶりの公式戦スタメンマスクに花を添えたのだ。

 この試合から遡ることちょうど1年、2009年の第6節、場所も相手も全く同じの豊田大会シオノギ製薬戦で、藤崎はトヨタ自動車に入ってから初めて怪我以外でのスタメン落ちを経験した。その不振の一年を象徴するかのようなスタメン落ち試合からちょうど1年後に叶った「アボットとバッテリーを組むスタメン捕手・藤崎」。この試合は苦しみながらも努力してきた藤崎に送られた最高のプレゼントだったような気がする。

<2009年第5節の戸田中央総合病院戦で試合途中からマスクを被った藤崎。翌2010年の第6節に最初で最後の“アボットとのスタメンバッテリー”が実現する

<さいごに>
 さて2011年以降、そこから先も2年間活躍し3連覇に貢献する藤崎だが、この稿も少し長くなりすぎたのでここら辺りで終わろうと思う。

 僕の知人に何人も藤崎ファンがいたのだが、その内の一人が手作りの「藤崎由起子人形」をプレゼントしたことがある。バットを構えたそのなかなかリアルな人形の右肘部分には、しっかりと「黄色いボール」が貼り付けられていた。そう、彼女は「うまく右肘に投球を当ててデッドボールにしてしまう名人」だったのだ(笑)

 大事な試合の大事な場面で与える死球ほどチームにとってのダメージもないのだが、藤崎に「わざと」死球を奪われても正直悔しさは全く感じなかった。それどころか余りもの自然な当たり方に思わず「上手い!」と唸ってしまうほどだった。とにかく藤崎なら許せる、そんな選手だった。
 ん?別に藤崎が「わざと死球を当たっていた」なんて白状したわけでもないし、これはもちろんこっちの勝手な想像。まあ彼女のことだ許してくれるだろう(笑)
 でもほんと、彼女はよく死球をもらっていたが、今思えば可愛いもんで、当たって当然という投球だった。

 引退した今年はトヨタカップでは弁当を配るオバサンの役をしていたし、シーズンが始まればスコアラーとして全国を回ることになるだろう。でもどうせトヨタ自動車なんか放っておいても勝つんだから、試合のビデオ撮影なんか適当に済ませて、ゆっくり温泉にでも使って今までの疲れを癒して下さい。
 (※あれから6年が経って改めてこの稿を読み返しているが(2019年10月2日)、自分で書いておきながら「良い選手だったなあ」とじんわり泣けてくるほどあのころの藤崎選手との関わりが懐かしく感じます。ほんと、良い選手でした)

 7年間、ご苦労様。

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